地蔵の会
活動停止のおしらせ(2021.4.19)
昨年の9月に今年度の活動の停止のお知らせを告知させていただきましたが、延命寺で副住職を務めていた小林が役職を辞任することとなり、それに伴い、地蔵の会の活動を停止いたします。
「地蔵の会」は、2016年2月に、「現代の都市近郊に住む私たちの暮らしの現実にあった祈りの場を、私たちが暮らすこの都会に創りたい」という思いで繋がった3人(小林、谷口、中尾)が、本堂のご本尊である延命地蔵さんの前に坐りそれぞれの思いを聴き語りあったことからはじまりました。
その後、お地蔵さんと一緒に月1回坐る「地蔵の会の円坐」、暮らしの中で聴く時に使う技、立脚する世界観を探究する「てらたん(=寺で胆力をつけるの略称)」、こころと暮らしの相談室の「ここくら」、そして小林・谷口の恩師である哲学者内山節先生の寺子屋と、少しずつ活動を拡げてきました。2020年4月からはEP(延命寺 場を開くプロジェクト)と名前を変え、谷口と小林が中心になって地域に根ざした活動を創る方向に舵を切りましたが、新型コロナが巻き起こした社会現象の中での試行錯誤がはじまり、その結果、一度原点に戻り、延命寺に似合った場の開き方や役割をじっくりと再考する機会を持つとして、半年間の活動停止を決めました。
それから半年。このたび、活動再開のお知らせではなく、一連の活動の幕を下ろすというアナウンスをすることになりましたが、この決断は、「地蔵の会」のはじまりにあった願いを具現化していくプロセスの「終わり」ではなく、「地蔵の会」で活動をさせていただいたからこそ訪れた次のフェーズへの移行なのだと思っています。お寺でこれまでのようにお会いできなくなることは寂しいですが、また、ご縁があって何らかの形でお会いできることがあれば、と願っております。これまで、私たちの活動に関心を寄せ、場を共にしてくださり、誠にありがとうございました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
こんな感謝の思いで一杯の閉幕ですので、私たちにとってかけがえのない大切な活動の記録がいっぱい詰まっているこのホームページは、閉じることなく、このままアーカイブとして残しておくことにいたします。
尚、これまで「地蔵の会(EP)」がやってきた活動のうち、「寺子屋」、「てらたん」、「ここくら」は、以下のように、主宰を変えて継続します。
○「寺子屋」→ 谷口もメンバーの一人である寺子屋運営チーム
http://baohiraku.com/
○「てらたん」と「ここくら」→谷口が代表を務める合同会社共創ラボ
https://www.kiyotani.net/
以下、コロナ禍での活動を切り盛りし、この一連の活動の幕を下ろすプロセスを担ってきた、小林と谷口から、それぞれ、ご挨拶の言葉を置かせていただきます。
=============
小林永照
2015年から「寺子屋」を、2016年2月からは「地蔵の会」としてお寺を開く活動を、延命寺の副住職として行わせていただきました。
この間、延命寺をはじめ、主催側・参加側をとわず沢山の方にお越しいただき、支えていただきながら活動を続けることができました。本当にありがとうございました。
この度、僕は延命寺の副住職の立ち位置を離れることとなりました。これまでの地蔵の会の活動の数年間振り返りると、様々な方とのやり取りがありました。それらをまとめて総括することは、まだまだ難しいのが正直なところですが僕にとっては、この歩みの先に自分の今後の人生があるように思っています。
僕は、お寺の跡取り息子として生まれながらも、青年期からこのかた、人と交わることに難しさを感じ悩み続けてきました。今にして思えば、その根底にはありのままの自分が存在していて良いんだと感じることがどうしてもできなかったことが、大きな起因だったように思います。そこから僕は、無自覚のうちに、何か救いを求めて歩んできましたが、そうした中で出会ったのが、内山節先生でした。社会人が沢山いる大学院の授業で先生がお話された、かつての日本の農村共同体での信仰の世界ーーーそれは自然や他者そして亡くなった人々と共に、今を生きる人々が感じとり紡いできた「自分たちが還る場所」ーーーについてのお話に、今まで自身が求めてきたものを感じとり、感動しました。そして、内山先生とのつながりから出会ったのが、谷口起代さんでした。起代さんとの出会いは、僕の人生にとっては本当に大きいことで、この人との出会いがなければ僕は今頃どうしていたか分からないほどです。そしてそんな起代さんと、2016年頃に出会った中尾聡志さんと一緒に地蔵の会を始めました。
「自分たちが還る場所」と呼べるような生も死も内包する世界は、都会の生活の中ではあまり意識されないかもしれません。ですが、現代の都会の片隅にありながらも、800年以上お地蔵様がいて、守られてきたお寺では、安心してその世界に触れて、感じて、語り合うことができたように思います。そして、このような場が開くことができたのは、お寺の場の力だけでなく、そのような世界をキャッチして表現し・体現されてきた内山節先生や谷口起代さんのリードがあればこそだったと思っています。この間、自分よりも大きなものと、祈りを通して結ばれていく関係の世界の美しさを学び、体験させていただきました。
最後になりますが、活動を通して、多くの方にお寺にお越しいただいたこと。そして場に親しんでいただけたことは嬉しく有難い事でした。
ありがとうございました。
========================
「1つの節目に」
谷口起代
「地蔵の会」として活動できたことは、私にとって、本当に大きくて豊かな出来事でした。ご一緒して下さった方々がいたからこそ、この活動を創ってくることができました。ありがとうございました。
思い返してみると、大学で一度は宗教学を専攻していたくらい、昔から、「信仰」という行為に関心を持っていました。「人は、なぜ、生きるのか・生きなければならないのか」という問いにぶつかりがちだった若い頃の私にとって、その答えが宗教の中にあると思ったからかもしれません。長い年月が経ち、若い頃に私を悩ませていた問いは影を潜めましたが、その変わりに得たのは、何かを信じるという行為が、それを体現していくというプロセスが、人を活かすのだという思いです。そして混沌とした現在、健全で安全な信仰の世界を持って生きることの必要性が高まっていると思います。
ところで、既存の宗教には、それぞれの「正しさ」や「正しい道」の教えがあります。地縁で結びついた共同体という単位がなくなり個人単位でこの社会に存在する私たちは、さまざまな文化や価値観を持つ人たちと関係を持ちながら生きています。1つの宗教が教える「正しさ」を受け入れることは、日常で出会う、その「正しさ」とは異なる「正しさ」に基づいて生きている人と関係を結ぶことを困難にします。ともすれば、それが、人の間に優劣をつける視点をつくり、排除や敵対へと向かわせます。一方で、既存の宗教が教える真理や「正しさ」はさておき、ただただシンプルに、自分たちよりも大きな何かを信じることや、すでに赦されていると体感することから生まれる、大らかさ、赦し、なぐさめ、慈しみ、和解、真摯さ・・・・そういうものを共に感じられる場への希求は高まっています。
私が欲しているのは、既存の宗教の教えに帰依することは求めないけれども、連綿と続いてきた伝統ある信仰の世界から乖離せず(つまり、近すぎず、遠からず)、そのことで暮らしの連続性において、暮らしで関わる人と共に、信じ、祈ることができ、霊的感受性を育める場だ・・・そんなことをうすうすと感じていた私が、延命寺の跡取り息子として育った小林君と大学院で出逢いました。僧侶としてどう生きるかを問いながら、暮らしの中に息づく信仰の世界に惹かれて諏訪の御柱祭について修士論文を書いていた小林君が持つ感性と私の感性が共鳴したことが、「地蔵の会」が生まれた背景にあったのだと思います。
「地蔵の会」では、色んな人が集まることができました。表だって「信仰」を語ることはないけれど、信じるという行為へ敬意を払いあえる集まりでした。各々が、自分の身体の実感を伴った思いを語ることができ、その背景にある世界観や生命観に耳を傾けることができ、自分と違うことを信じている人のありようを尊重し、異なるものがあることを認め合う。1つの色に染まることなく、とっても信仰の深い人から、ただ場の空気が好きな人、なんかゆっくりしたくなっただけの人も、集い、出逢っていくことができました。やはり何百年もの間、人々が救いをもとめて集い祈りを捧げてきた場であるということが、そこに集う私たちに与えてくれたものは大きくて、この場にあって、私たちは、謙虚になれ、素のまんま出会い、真摯になれて、互いのよりよき歩みを願い・・・そんな関係があるからこそ日々をちゃんと生きようと思えるといったふうに、循環がうまれていたと思います。
「地蔵の会」は、このような意味で、伝統的信仰と現代の世俗的欲求が絶妙に絡み合った場でした。1つの教えに束ねられることをしなくても、この場への安定感は、800年以上も続く延命寺のご本尊のお地蔵さんが与えてくれたのだと思います。実際、何か、道をはずれるようなことがあったら、お地蔵さんが教えてくれるはずだという安心感のがありました。これは、本当にありがたいことでした。活動を一旦停止し少し離れてみて、どれだけ恵まれた環境であったかということを実感しています。
ここまでの文章で明らかなように、今の私の関心は、人間が創った制度化された宗教の枠組みにしばられないところにある救いへと移行していますが、小さい頃には日曜学校に通っていたこともあり、20代で洗礼を受けてきましたので、聖書の言葉に馴染んできています。今でも、教会に通っていた頃に身につけた「みこころならば」という言葉は、私のある特定のこころの状態を表すものとして、しばしば浮かぶ言葉です。そんな私でも「お地蔵さんにお尻をむけるような人でなければいい」ということで、活動させていただけた。「地蔵の会」の活動は、延命寺を守ってきた方々が受け継いできた、懐の深さにも支えられてきたのだと思います。本当に感謝です。
「地蔵の会」の活動を通して、日々の暮らしの中で生まれる祈りを持って、または救いを求めて、集まれる場があれば、人は集まり、尊重し合い、その場は循環し、展開していくのだということを実感させていただきました。そして、私の役割は、ここにあるということも。ですので、これからも、現代を生きる私たちの深いところから出てくる願いや祈りを持って集まれる場をつくるという旅を、そしてそこに生まれる関係を軸にコミュニティを育んでいくという旅を、続けていきます。
これまでの場にご参加くださった皆さま。「地蔵の会」が開いてきた場は、とかく、説明しがたく、わかりづらい場であったと思います。ですが、そのこと自体を楽しんでいただきありがとうございました。ただ、「場」に「居る」ということにおいて、これらの場を共に創っていただいたのだと思っています。
この1つの節目に置きたい言葉は、やはり、もう、すべてにありがとう です。
========================
2020年最新情報
「大切なものと丁重にお別れする集い」(通称燃やす会)のご報告ページアップしました
--------------------------------------------------------
======================
☆てらたん塾 →現在、延命寺での開催は休止し、「旅するてらたん」として共創ラボが主催で開催しています。 お問い合わせは、共創ラボ 谷口の方まで。
てらたん塾について、詳しくは、「てらたん企画」のページをお読みください。
問い合わせは地蔵の会まで。ご遠慮なく。
--------------------------------------------------------
★お寺の環七側の入り口詳細ページはこちら
(地蔵の会に関する最新情報は【地蔵の会フェイスブックのページ】で随時更新しております)
~今までの活動~
てらたん講座(てらたん=お寺で胆力をつけるの略)
てらたんプレ講座 …2016.7/23(土)
てらたん講座第一弾『暮らしの中で「聴く」時に使う技・立脚する世界の探究』(六回)
2016
10/16、11/20、12/18
2017
1/8、2/12、3/12
(詳細はこちら)
てらたん塾
2017
6/18、7/9、9/10、12/10
2018
1/28、2/25、4/21、5/27、6/24、9/26、11/11、12/16
2019
1/13 、2/24、3/10、4/21、5/26、6/16、7/6(体験会)、7/21、10/20、11/17 、12/15
2020
1/19、2/9、3/15、4/19 (Online)、5/24 (Online)、6/21、7/19、
「旅するてらたん」9/13、
てらたん塾合宿
2018/8/30~31起代さんのくるみの家へいきました。
2019/8/8~9谷口家・西沢家(起代さんの実家)にお邪魔いたしました。
てらたん講座第二期
2019
1/12、1/13、3/10
――――――――――――――――
地蔵の会の円坐
2016
3/24、4/26、5/26、6/26、7/28、8/25、9/29、10/13、11/24、12/22
2017
1/26、2/23、3/23、4/17、5/19、6/13、7/11、8/8、9/26、10/8、11/8、12/13
2018
1/10、3/14、4/11、5/9、6/13 、7/11、8/8、9/12、10/10、11/14、12/12
2019
1/9、2/13、3/13、4/10、5/8、6/12、7/10、9/11、10/9、11/13、12/11
2020
1/8、2/12、3/11、
4/8、5/13、6/10、7/8 ←「ただ静かに過ごせる場所」として開催
――――――――――――――――
★特別企画
2018/12/26 地蔵の会主催 年暮れ謝恩の坐
2019/3/31 てらたん塾主催「大切なものと丁重にお別れする集い」
2019/12/27 地蔵の会主催 年暮れ謝恩の坐
2020/3/11 「それぞれの3月11日への静かな時間」